現存する世界最古の印刷物 百万塔 陀羅尼経

百万塔の奉納事業

「藤原仲麻呂の乱」の際に戦死した幾多の将兵の菩提を弔うことと鎮護国家を祈念するために称徳天皇の発願で行われました。孝謙上皇(のちに重祚して称徳天皇)の病気を平癒させ、信頼を得た道鏡が仏教の普及活動を行っていた施策のひとつです。
この奉納は当時の大規模な国家事業で、「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記録されており、そこには、770年(神護景雲4年)の完成まで5年8ヵ月を費やし、157名の技術者が関わったと記されています。

百万塔の奉納事業

「奈良時代、無垢浄光大陀羅尼経」に基づいて、陀羅尼経を100万巻印刷し、高さ20センチほどの小型の塔に納めて10万基ずつ大安寺・元興寺・法隆寺・東大寺・西大寺・興福寺・薬師寺・四天王寺・川原寺・崇福寺の十大寺に奉納しました。 この塔に納められた陀羅尼経が、現在、現存する世界最古の印刷物として知られている『百万塔陀羅尼』である。

「百万塔」と「陀羅尼経」の詳細

法隆寺

塔の100万基の内、現存するものは法隆寺にある約4万4千基と個人蔵などの若干数、経は約2千巻とされている。
塔の中に納められた「陀羅尼経」には、自心印、根本、相輪、六度の4種類があり、幅は約5.4センチ、長さは最長の根本陀羅尼経で51.5センチ、最も短い六度陀羅尼経でも27.2センチある。そこに1列5文字の経文が整然と印刷されているのである。用紙の材料としては麻、黄麻、殻(かじ)の3種類を使われていたと考えられている。これらの経文は当時の技術から木版で刷られたと推定されているが、100万巻もつくられたことから金属版を使ったという説も唱えられている。版の素材はともかく、現存する製造年が判明(日本書紀による)している凸版印刷では、世界最古なのである。

道鏡のおかげで誕生した『百万塔陀羅尼』

怪僧・道鏡のおかげで誕生した『百万塔陀羅尼』であるが、それらが実際に奉納されたのは、称徳天皇が崩御する宝亀元(770)年のことだった。発願より6年の歳月を経ての成就であった。100万巻の経文の印刷は、これほどの長い時間が必要な大事業だったのだろう。

道鏡(wikipediaより)

時代背景

奈良時代 8世紀(紀元前800年から700年頃/天平時代)の出来事。
西暦760年(天平宝事5年)、時の上皇である孝謙上皇は、平城京の修理のため、帝である淳仁天皇と共に近江国の保良京に移ります。そこで上皇は重い病気にかかってしまいます。その際、宮中に出入りしていた道鏡禅師が祈祷によって孝謙上皇の病気を治療し、以後、上皇は道鏡へ信頼を寄せて行きます。

一方で、朝廷に隠然たる力を持つ実力者であり、皇族以外で初の太政大臣(行政のトップ)となった藤原仲麻呂(またの名を藤原恵美押勝)という者がいました。藤原四家のうちの1つ南家の出身で、聖武天皇の皇后であった光明子(光明皇后)の甥にあたります。この仲麻呂は、淳仁天皇を擁立させた最大の功労者であり、その権勢は天皇をはるかにしのいでいました。

天皇を意のままに操る仲麻呂にとって、上皇の側近となりつつある道鏡は目の上のタンコブでした。そして上皇は独身であり、上皇と道鏡が男女関係にあったりすると朝廷の聞こえもよろしくなくなることから、仲麻呂は天皇を通じて上皇に、道鏡との付き合いを考えるように諫言します。しかしこれが完全に逆効果で、天皇と仲麻呂は上皇の逆鱗に触れてしまいました。

西暦762年(天平宝字6年)6月3日、上皇は五位以上の官人を集め、「天皇が親不孝者である」というワケの分からない理由で仏門に入って別居することを表明。さらに国家の大事である政務は上皇である自分が、小事は天皇が執るように宣言しました。出家して別居するが政務は上皇が見るというなんともトンチンカンな宣言ですが、これはどう見ても天皇と仲麻呂の諫言に対する意趣返しでした。

仲麻呂はこれまで朝廷を意のままに動かして来たため、国家の政務を上皇に執られるのは非常に都合が悪い上、自分の権勢を丸ごと道鏡に奪われるのではないかと危惧し始めます。西暦764年(天平宝字8年)9月、仲麻呂は天皇に「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」への就任を求め、軍兵を集めることを画策します。

しかし、仲麻呂から兵の動員指令を受けていた高丘比良麻呂と和気王が、上皇に密告したため、上皇は仲麻呂の動きを「謀反」と断じ、山村王に命じて淳仁天皇を幽閉し、皇権発動に必要な玉璽と駅鈴を回収。これで仲麻呂は「朝敵」となった為、太政官印を持ち出して平城京を脱出しますが、同月18日、近江国高島郡で仲麻呂は惨殺されました。これを「藤原仲麻呂の乱」と言います。

淳仁天皇は上皇に幽閉されていたため、乱の責任は問われませんでしたが「仲麻呂と近しい関係にあった」ことを理由に廃位の上、親王に格下げされて淡路島に流されました(以後、淳仁天皇は「淡路廃帝」と呼ばれます)。空位になった天皇の地位には、孝謙上皇が重祚(一度退位した者が再度即位すること)して「称徳天皇」となり、西暦765年(天平神護元年)、仲麻呂が務めていた太政大臣の地位には道鏡が僧侶のまま就任しました。道鏡は翌年の西暦766年(天平神護2年)には法王に昇ります。

天平宝字8(764)年、仲麻呂は反旗を翻す。密かに平城京を抜け出し、一族の本拠地である美濃を目指すが、吉備真備率いる官軍に待ち伏せされ、近江と越前の境・愛発関で討ち取られてしまう。これが、いわゆる「藤原仲麻呂の乱」である。乱の後、淳仁天皇は位をはく奪され淡路島に配流となり、上皇が重祚して称徳天皇となった。

【リンク】
孝謙天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%AC%99%E5%A4%A9%E7%9A%87
藤原仲麻呂の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82%E3%81%AE%E4%B9%B1
道鏡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E9%8F%A1
続日本紀
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80
レキドラ!~歴史はドラマの1ページ~
http://rekidorama.seesaa.net/category/21451358-1.html

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